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前橋地方裁判所 昭和39年(わ)50号 判決 1965年3月29日

被告人 木村延佳

昭五・六・一九生 無職

主文

被告人を判示第一および第二の各罪につき、それぞれ死刑に処する。

押収してある金メツキ側腕時計ケース一個(昭和三九年押第二八号の二一)およびクロームメツキ側腕時計一個(前同号の二二)は、いずれも被害者Aの相続人に、押収してある黒ビニール編み手提袋一個(前同号の二八)、黄色紙袋入新聞紙に包まれた弁当箱、箸一包(前同号の二九)、ハンカチーフ一枚(前同号の三〇)、ちり紙一七枚(前同号の三一)、領収書一枚(前同号の三二)、爪を包んだ紙包一包(前同号の三三)、黒皮だ円形がま口一個(前同号の三四)および婦人物折畳傘(赤い横じまのあるもの)一本(前同号の三五)は、いずれも被害者Bの相続人にそれぞれ還付する。

理由

(被告人の略歴および本件各犯行に至る経緯)

一  被告人は、亡木村積重の五男として本籍地で生まれ、地元の高等小学校を卒業後、自動車運転助手、農業手伝などしているうち、昭和二七年四月一五日、木村ツヤ子と結婚し、同年九月から栃木県上都賀郡足尾町本山の古河鉱業足尾製作所本山坑で運搬夫となり、ツヤ子との間に二女をもうけ、経済的にも安定していて、平和な生活を送つていた。ところが、同三二年一二月二九日、その職業上、珪肺病に罹患することを恐れて同所を退職し、妻子とともに本籍地の実兄積善方や妻の実家に身を寄せ、失業保険金などで生活していたが、同三三年六月ごろ、同保険金の受給期間が切れたところから、新田那藪塚本町所在東武鉄道藪塚駅附近に間借りし、桐生市内の落花生工場「金仙」に勤め、あるいは、横浜へ出稼ぎに行くなどしていた。同三三年一二月、さらに同町大字藪塚(通称湯の入り)○○○番地に転居し、土方、旅館下働き、横浜の飼料会社に一時出稼ぎに行くなどをした後、同三八年一月ごろから、桐生市新桐生の藤掛勝太郎方のトラツク運転助手となつた。右藪塚○○○番地に転居後、被告人一家は、西隣の同所○○○番地Cの家族と親しく交際を結ぶに至つていた。

二  被告人は、同三八年三月中は、胃の調子が思わしくなく、同月二日から二一日までの間に一五日しか稼働できなかつたため、その月の賃金は九、〇〇〇円に過ぎなかつたうえ、四、二〇〇円の前借があり、同月二一日に前記藤掛から支払いを受けたのは、僅かに五、〇〇〇円に満たなかつた。そこでより多額の収入を得るため、砂利採取業伊藤茂方で働くこととし、同月三〇日から桐生市広沢町四丁目(通称間の島)附近渡良瀬川河原で砂利採取をはじめたが、右伊藤方では賃金を五日目毎に精算することとなつていたため、被告人は、同月末に家に持ちかえるべき現金を得ようとして、遂に、判示第一の犯行に及んだ。

三  被告人は、判示第一の犯行後間もなく、プラスチツク工場に就職したが、同三八年八月ごろにはこれも辞め、以降始んど収入なく、次第に借財が嵩み、同年一〇月末には家賃を三か月分も滞納する状態となつたので、翌月二日、子供二人を桐生市元宿町二、〇一五番地田尻アパートに居住していた妻の実母木村きよに預け、妻とともに右藪塚○○○番地の居宅を夜逃げ同様ひき払つて、横浜市中区花咲町一の二〇番地大衆食堂大黒屋のコツク見習および店員として住み込み、翌三九年一月ごろには、生活もやゝ安定したため預けておいた子供二人も手許に呼び寄せた。しかし、同年二月一一日、雇主と些細なことで口論して同店を辞め、実兄積善方に同人の娘礼祝に来たと称して身を寄せたが、長く滞在するわけにもいかず、同月一六日には、一家を挙げて右木村きよ方に移つた。その際、被告人は、右きよに対して、足積善方で同月二三日の婚礼が終り次第同人方に移る旨詐言を弄しながら、内心では、右きよ方に居る間も住み込みの稼働先を見つけるつもりで、毎日朝から出歩いたものの、適当な職を見つけることができず、生活の方途が立たないまま、パチンコなどして時間を過して日を送るようになつたが、手持の金も次第に少くなり、同月二四日夜には、右きよから立ち退きを催促されるに至り、言訳に窮した結果、同女に対して明日兄積善が被告人一家の生活費などを持参する旨さらに虚言を重ねた。かくして、いよいよ金策に迫まられ、翌二五日には、前記「金仙」で働いていた際の同僚小島美奈子を訪ね、借金を申し込んだが断われ、やむなく右小島の斡旋で妻の洋傘および自己の着用していた外套、手袋を入質したが、わずかに七〇〇円しか得られなかつたため、これをもとでに、儲けようと考え、桐生市錦町「あたりや」パチンコ店でパチンコ遊戯をしていたものである。

(罪となるべき事実)

被告人は、

第一  昭和三八年三月三〇日午後五時半ごろ、冒頭二記載のとおり月末に妻に渡すべき金もなかつたところから、被告人の姪(実姉Dの長女)A(昭和一二年九月二二日生、当時二六才)が桐生市○○町所在○○○○製作所工員で、毎月三〇日が給料日であることを思い浮べ、同女から借金しようと考え、右製作所に同女を訪ね、話があると誘い、同女と共に同製作所からそれぞれ自転車で同市立南中学附近交差点に赴き、同所で金を借りることを申し込もうとしたが、にわかに同女に対して劣情を催し、同女を人気のない場所に連れ込んで強いて姦淫し、そのうえで金を借りようと決意し、同女に対し「お前は、子供をおろしたと評判になつているぞ。」「その噂を誰がしているか教えてやる。」などといつて同女を欺き、同所から同市境野町四丁目一、九七〇番地の二七第三水源地(通称ゴルフ場)ブロツク塀東角の北方約一一六・三メートルの渡良瀬川原(昭和橋下流約八〇〇メートル)の前記砂利採取場附近に同女を同行させ、同日午後七時過ぎごろ、同所に同女と腰をおろして話をするうち、やにわに同女に抱きついてその場に仰向けに押し倒し「お前が好きだ。させろ。」などと申し向けながら、同女の上にのしかかり、同女が「厭だ。厭だ。叔父さんのくせに何するの。」などと叫びながら手足をばたつかせて抵抗するのを抑圧して強いて同女を姦淫し、さらに、その場に立ち上つて下着などをなおしていた同女に対して「二・三、〇〇〇円都合して貸してくれないか。」と借金を申込んだところ、同女が「そんなに金が欲しいなら荻窪へ行つて借りろ。」「叔父さんのくせに人を騙してこんな所に連れて来てひどいことをして。父ちやんと叔母さんに言いつけてやるから。」などと言いながらその場から逃げ出そうとしたため、自已の非行が発覚するのを恐れ、とつさに同女を殺害しようと決意し、二、三歩行きかけた同女の背後から右腕をその頸部に廻して引寄せ、その場に仰向けに押し倒し、馬乗りとなつて同女の頸部を両手で強く締めつけ、同女が失心状態に陥るや、さらに同女から金品を強奪することを決意し、同女が頭に被つていたネツカチーフ(昭和三九年押第二八号の二五)を外して同女の頸部に二重に巻きつけ、これを一・二回強く緊縛し、よつて同女をその場で窒息により殺害し、さらに、右犯行を隠蔽するため、同女の死体を抱きかかえて同所附近の直径約二メートル、深さ約一メートルくらいの砂利穴に運び入れ頭部を南にし、足をくの字に曲げて同穴内の約六個の玉石の間に押し込み、同女が右腕につけていた女持腕時計一個および前記殺害場所にあつた同女の手提袋から現金一七、〇〇〇円在中のがま口一個を強取したうえ、附近にあつた砂利採り用ジヨリンを用いて砂利を同女の死体上にかけ、これを容易に発見できないように埋没し、もつて同女の死体を遺棄し

第二  昭和三九年二月二五日午後三時ごろ、冒頭三記載のごとく金策に窮し、前記パチンコ店でパチンコ遊戯をするうちに、藪塚湯の入りに居住していた当時懇意にしていた前記Cの妻B(当時三五年)が桐生市○○町○○○番地有限会社○○○○に工員として通勤していることを思い浮べ、同女ならば借金の申し出に応じてくれるものと考え、同日午後六時ごろ、東武バス桐生機械前停留所附近に赴き、右Bが帰宅のため同停留所に来るのを待ち受け、同女が同所に現れるやあたかも偶然出会つたかのごとく装い、横浜へ転居後のことなどを話し合つているうちに、同女方へ来ないかと誘われたのを奇貨として、同女を人気のないところに連れ出して強姦し、そのうえで金を借りようと企て、藪塚を去る際には夜逃げ同様であつたのでバスや電車では人に逢うので恥しい、藪塚まで徒歩で峠越えしたいなどと述べて同女を欺き、同女と連れ立つて右停留所から昭和橋を渡り、広沢小学校附近を経て桐生・新田線県道を湯の入り方面に向かつて歩き、桐生市と太田市の境界にあたる峠にさしかかるや、「疲れちやつた。少し休んでいくべえ。」「この上にいい休み場所がある。」などと述べて同女を同所から東南側の小径を登つて約二三四メートル距つた太田市大字西長岡一、四七〇番地、通称高尾山共有林内に連れ込み、同所で、右Bが着ていたコートを敷いてその上に同女と腰をおろして休んでいるうち、やにわに同女に抱きついてその場に押し倒し、その上にのしかかつて接吻し、同女が顔を左右に振り、手足をばたつかせて抵抗するのを抑圧して強いて同女を姦淫し、同女の身体の上にのりかかつたまま借金を申し出るや、同女から「私をこんなひどい目にあわせた延ちやんには貸さない。Cさんのところではつきりと私をこういうふうにしたことについてかたをつけてくれ、テレビの金もひつかけているじやないか。」などと言われたため、いつそ同女を殺害してその所持金を強奪しようと決意し、抑向けになつていた同女の咽喉部を両親指を交差させて強く絞めつけ、同女が失心するや、さらに同女のマフラー(昭和三九年押第二八号の四〇)を同女の頸部に二重に巻きつけて緊縛し、よつて同女をその場で頸部緊縛による窒息により殺害し、同女の着衣右ポケツトから現金二、一五〇円在中の黒皮だ円形がま口一個(前同号の三四)、定期券一枚在中の定期券入一個、同女が所持していた女物折畳式洋傘一本(前同号の三五)および黒ビニール編み手提袋一個(前同号の二八)(黄色紙袋入新聞紙に包まれた弁当箱、箸一包(前同号の二九)、ハンカチーフ一枚(前同号の三〇)、ちり紙一七枚(前同号の三一)、領収書一枚(前同号の三二)、爪を包んだ紙包一包(前同号の三三)各在中)(時価合計約一、八二〇円相当)を強取し

たものである。

(証拠の標目)(略)

(確定裁判)

被告人は、昭和三八年九月一三日太田簡易裁判所で道路交通法違反罪により罰金四、〇〇〇円に処せられ、右裁判は同年一〇月三〇日確定したものであつて、右事実は、前橋地方検察庁作成の前科照会回答書によつてこれを認める。

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為中強姦の点は刑法第一七七条前段に、強盗殺人の点は同法第二四〇条後段に、死体遺棄の点は同法第一九〇条に、判示第二の強姦の点は同法第一七七条前段に、強盗殺人の点は同法第二四〇条後段にそれぞれ該当する。

ところで、被告人の判示第一の強盗殺人は、叔父である被告人を幼時より慕い、信じて来た姪に対して、獣欲の犠牲にしたうえ、その若き生命までも奪い、その所持金を強取し、果ては、同女の死体を砂利穴に隠蔽し、その犯行後は、同女の内縁の夫と共に桐生警察署に赴いて同女の捜索を願い出たり、贋手紙を被害者の両親宛に送るなどして同女が家出したかの如く偽装工作をするなど、その手段態様は、大胆かつ残忍である。被害者の親族とくにその母親で、かつ、被告人の実姉でもあるDの心情たるや、言語に絶するものがあり、同人の証言に深く想いを致すべきである。

被告人の判示第二の強盗殺人は、判示第一の強盗殺人の犯行後約一ヵ年を経過して行われたもので、被告人ら一家に対し心よりの好意をもつて接していたBに対して、巧妙な詐言を弄して人の気配のない山中に連れ込み、強姦したうえ、僅かな金銭を得るため手段を選ばず、同女の生命をも奪つたものであつて、その犯行は残忍を極め、目を覆わしめるものである。被告人のかかる残虐な行為によつて妻を失つた夫や母を奪われた幼い子らの悲嘆愁傷、さらにその憤りは真に測り知れないものがある。

これに反し、右各犯行の動機には何ら憫諒すべき点が見出せない。被告人の性格、生活態度、右各犯行が社会に与えた影響等諸般の情状を考え合せると、右各犯行について、いずれも極刑をもつて処断するのが相当である。よつて判示第一および第二の各強盗殺人罪につきその所定刑中いずれも死刑を選択する。

被告人の前記確定裁判を経た罪と判示第一の各罪とは同法第四五条後段の併合罪であるので同法第五〇条により未だ裁判を経ない判示第一の各罪についてさらに処断することとし、判示第一および第二の各罪はいずれも同法第四五条前段の併合罪であるので、同法第四六条第一項により前記のとおり強盗殺人の罪につき各死刑を科したほかに他の刑を科さず、よつて、被告人を判示第一および判示第二の各罪につきそれぞれ死刑に処する。

押収してある金メツキ側腕時計ケース一個(昭和三九年押第二八号の二一)およびクロームメツキ側腕時計一個(前同号の二二)はすべて判示第一の強盗殺人罪の賍物で被害者Aの相続人に還付すべき理由が明かであり、押収してある黒ビニール編み手提袋一個(前同号の二八)、黄色紙袋入新聞紙に包まれた弁当箱・箸一包(前同号の二九)、ハンカチーフ一枚(前同号の三〇)、ちり紙一七枚(前同号の三一)、領収書一枚(前同号の三二)、爪を包んだ紙包一包(前同号の三三)、黒皮だ円形がま口一個(前同号の三四)および婦人物折畳傘(赤い横じまのあるもの)一本(前同号の三五)はすべて判示第二の強盗殺人罪の賍物で被害者Bの相続人に還付すべき理由が明かであるので、いずれも刑事訴訟法第三四七条第一項により還付することとする。

訴訟費用については、刑事訴訟法第一八一条第一項但書を適用して、被告人に負担させないこととする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 三橋弘 伊沢行夫 萩原昌三郎)

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